IT技術関連のこと、読んだ本の紹介、実際に買って使ったオススメのガジェットなどなど、書いていきます。

2018/10/07

今週の読書紹介(2018/10/01~2018/10/07)『ローティ論集』『虫から死亡推定時刻はわかるのか?』『なぜ上手い写真が撮れないのか』『なにもできない夫が、妻を亡くしたら』


台風来すぎ!! な今週(2018/10/01~2018/10/07)からは次の 4 冊を紹介。


リチャード・ローティ、冨田恭彦編訳『ローティ論集 「紫の言葉たち」 今問われるアメリカの知性』勁草書房、2018. ( amazonで見る )

「プラグマティズムの核心をなすのは、真理の対応説と、真なる信念は実在の正確な表象であるという考えを受け入れるのを、拒否することである。」 ( 本書 p.170 )

そして自身をプラグマティストと称するローティと直接の交流もあった冨田恭彦さんが、 1991 ~ 2007 年までの間に発表されたいくつかの論文・書評・自伝から、日本語に編訳された、しかも、大量の訳註と解題つきという、大変貴重な一冊です。

収められているものは以下の通り。
  • 「ヴィトゲンシュタイン・ハイデッガー・言語の物象化」 ( 1989 )
  • 「合理性と文化的差異」 ( 1991 )
  • 「亡霊が知識人に取り憑いている――デリダのマルクス論」 ( 1995 )
  • 「分析哲学と会話哲学」 ( 2003 )
  • 「反聖職権主義と無神論」 ( 2003 )
  • 「プラグマティズムとロマン主義」 ( 2007 )
  • 「知的自伝」 ( 2007 )
これらのタイトルを見ているわけで垂涎ものですよね。ですよね? ではない?

ローティが、いかに彼の言うところの「精神史」を頭の中にインデックスとして持った上で、言葉を紡いでいるか、ということが、ありありと伝わってきます。しばしば彼を安易に批判する人が「浅い」「哲学ではない」と切って捨てますが、さざ波のような水面の下にどれだけの知的奔流が圧倒的な深さとともに渦巻いていることか。

全編読み通すのに前提知識として持っておいた方がより楽しめるだろうというのが、ローティも「世紀の最も重要な三人の哲学者としてデューイとヴィトゲンシュタインとハイデッガーを挙げた」 ( 同 p.226 ) ように、彼ら三者、とりわけ後期ヴィトゲンシュタインについてです。『探求』もしくは『青色本』を事前に読んでおくのをオススメします。デューイであれば、『学校と社会』あたりを。ハイデッガーについては特にいいかな……

細かく語り始めるとこの一冊分だけで一本以上の記事になってしまうこと必至なので、色々割愛します。

一点。ヘルダーを研究していた私から見ると、ローティはものすごくヘルダーと親和性が高いはずなのですが、ローティがヘルダーについて語っているというのを寡聞にして知らず。本論集の中で言及されているのも、やはりたったの一箇所のみで、ヘーゲルに歴史主義の影響を与えた、というくだりのみ。また、訳註によれば、ヘルダーがまだ若かりし頃に編纂した『批評の森』が参照されているらしく、前期ヘルダーは中期以後のヘルダー自身によって色々と乗り越えられているしヘーゲルに与えたという影響も『異説』や『イデーン』止まりなんじゃないかなーとかいかんヘルダーについて語り出してしまっている……

最後にもう一度ローティに戻って、「知的自伝」から以下を引用して終えます。

「私は 「 絶対的なものは存在するか 」 という問いの余韻すら残っていない時代が来てほしいと思う。その問いを問うことは己の有限性を受け入れる能力がないことをさらけ出しているのであって、いつか人間はもはや自分たちの存在の歴史性と偶然性から逃れようとはしないであろうと思いたいものである。」 ( 同 p.232 )


どこまでも力強いローティの「紫の言葉たち」です。



三枝聖『虫から死亡推定時刻はわかるのか? 法昆虫学の話』築地書館、2018. ( amazonで見る )

タイトルへの回答は、一概に分かるとは言えません、ということだそうです。

しかしそもそも法昆虫学とは何でしょう? 聞き覚えのない学問ですね。著者曰く、「法昆虫学者を標榜する人間が研究している分野であり、他者からみると何をしているのかよくわからない3K(くさい・きらい・きもちわるい)分野」( 本書 p.16 ) とのこと。……という少しユーモアセンスのある著者ですが、分かりやすく改めて引用すると、「ヒト死体を蚕食している昆虫を証拠として分析し、死後経過時間を推定する」 ( 同 pp.15-16 ) ことが主要な目的の一つという実践学問のようです。仕事内容を少し想像してみましょう。はい、すぐに記憶から消し去りたくなるような光景が浮かんできましたね。まさにその光景が具体的な描写でもってありありと語られます。

まずもって、目次に並ぶ小項目の文字列がまたトンデモないです。「死体を食べているウジから推定できること」「死体に入植するウジたち」「飛び跳ねるウジ」「ウジのいない死体」「損傷死体とニクバエの幼虫」といった具合に、ウジハエウジハエウジウジウジ、という単語がもちろん本文中にも飛び交います。蠅だけに。この紹介文で、ウエッ、となるような気の小さな方は本書を手に取るのは控えた方がよろしいでしょう。イケるイケる、という方でしたら、めくるめく新鮮な世界、ぜひ垣間見てみてください。大変フレッシュな印象を受けるでしょう。死体だけに。ただ、食事中にはページをめくらないことをオススメします。

さて最後に、法昆虫学という、この 21 世紀においてまだまだまだまだ未開の学問を、一人険しいウジの山々を徒手空拳で進んでいく著者から、凄まじく説得力のある言葉を賜ったので、ご紹介したいと思います。まさに、「何を言うか」以上に「誰が言うか」という話です。

「どのような分野・仕事でも、「華やかな世界」はごくまれな例であったり、一部の側面にすぎない。そのことを正しく認識し、「地味で目立たないことであっても、なお続けたい」という覚悟や情熱が必要である。」 ( 同 p.46 )



丹野清志『なぜ上手い写真が撮れないのか スランプを突破する最善の方法』玄光社、2018. ( amazonで見る )

タイトルがかなりストレートに煽ってくるわりに、中身は直接的な方法論が書かれているわけでなく、「考え方で写真が劇的に変わる」という帯の通りに、ほとんどが精神論的な内容になっています。全編白黒の本で、具体的な写真が掲載されていたりするものでもありません。

一応、こうしたらよいよ、というのは、あとがきに簡潔にまとまっているのですが……

既に写真をかなり撮ってきていて、コンクールなどにも出していたりするような人、つまり、写真に対して本気度が高ければ高いほど、読む対象としてはオススメの人なのではないかと感じました。そうでなく、普通にスマフォで撮ってるくらいのライト層にとっては、「へえ、そういうもんかー」という受け取り以上にはなかなか得られるものがないはずです。

刺さる人には、間違いなく刺さるのだろうなとは思います。いずれにしても心構えとしては、「写真は楽しくね」ということで!


野村克也『なにもできない夫が、妻を亡くしたら』PHP新書、2018. ( amazonで見る )

野村克也が、野村沙知代をいかに愛していたか、ということはすごくよく伝わってきました。亡くした妻への壮大なラブレター、というのが、本書最大の特徴なのではないかという印象です。出会いから別れまで、悲痛さをそれほど感じさせない語り口で、それでいながら若干の虚無感を覚えさせるような、一種独特で不思議な雰囲気に満ちています。生前の野村沙知代については、学歴詐称だのミッチーサッチー騒動だのというのがあって、若かりし頃に甚だ目障りな印象だったのですが、大変に「強い」人だったのだということがすごく伝わってきました。

ただ、著者のせいではなくて編集者のせいだと思うのですが、このタイトル、「なにもできない夫が、妻を亡くしたら」そしてその横に書いてある「ひとりになる前にしておくべきこと」という煽り文への回答は、特に本書内には無かったように思われます。死ぬまで働け、とか、趣味や生きがいを持っておけ、とかいうのが、そうなのでしょうか。だとしたら、うーん……?? 本文ができあがってからタイトルつけたりするものでしょうから、明らかに編集者側のミスだろうなと感じさせられました。こういうのはしばしば多くて、辟易とします。

0 コメント:

コメントを投稿